それでも生きるあなたへ

親子バッタ

よぅ

死のうと思っていた。ことしの正月、よそから冷凍飛騨牛の詰め合わせセットをもらった。パチンコ屋のお年玉としてである。肉の肌理は赤であった。真っ白なこまかい脂が織りこめられていた。これは夏にバーベキューしろということであろう。夏まで生きていようと思った。

妻が不倫していた。13年連れ添い、このまま人生の終着駅まで一緒に暮らしていくのだと思っていた。給料の全てを家に入れ、やりたいことや欲しいものを封印し、タバコもやめ2千円のバリカンを買って床屋代を浮かせて家族のために働いてきた。ある日妻の異変に気付いて確信をもってスマホを見た。そこには醜悪な、お互いの家族のことなど一切考えてない既婚者同士の愛欲にまみれたやり取りがあった。目の前が真っ白になり強い吐き気がした。2年も付き合っているらしい。意識が飛びそうになる。結婚している身で、守るべき家族がありながらコソコソと抜け出しお互いを彼氏彼女と呼び合っているこの生き物はなんだ?それを見た夫や妻や子供が流す絶望の涙の重さなど塵ほども頭に無い。目にした文字や写真は誇張ではなく死刑宣告のような鋭さで心を突き刺した。それでも夜が明ければまた朝が来て、一日が始まり仕事に行かねばならない。こんな精神状態で?だが時は待ってくれず一睡もできないまま仕事に行った。家族を食べさせるためだ。妻はいつも通りの笑顔で送り出してくれた。正気を保つのがやっとだった。

いつも通りの道を運転しいつも通りの職場に着きいつも通りの上司、先輩、同僚、後輩と挨拶をかわす。いつもと変わらないすがすがしい朝だ。妻が不倫していたことを除けば。

その日は何の音も聞こえなかった。まるでずっと水の中にいるような、苦しくてふわふわとした、遠くの方で何か聞こえるような聞こえないような感覚で一日を過ごした。今はもうその日をどう生きていたか覚えていない。いやきっと、その時の自分に尋ねても虚ろな目でなんとなく返事はするけれど意識はどこか遠くで(きっと悪い夢を見てるんだよな?)と繰り返していただけだったろう。

また明日がやってくる。永遠に続くと思っていた退屈で幸せな毎日はもう永遠に戻ってこないのだ。これから一体何のために生きていくのか。

人生で一番重いドア

仕事に疲れて帰ってきて、家族が待つ玄関を何度開けてきただろう。張り詰めた業務を終え、心からホッと一息つけるのはいつだって我が家の玄関だった。でも今日は家の中に妻がいると思うと凍り付いているのかと思うくらいドアが重い。歩き慣れている廊下も今は足に鉛球をつながれているようだ。家族の前ではできるだけ普段通り振る舞い、夜、不倫の証拠を突きつけた。妻は泣き狂いながら謝っていた。いつもの手だ。泣くか酒にまかせて暴れれば許される、いや、自我を失えば全てをうやむやにできると思っている。結果を受け止める覚悟も誠意も無いのだ。だからこの人間は長い夫婦生活の中で何も成長しなかった。そのたびに何十回と別れようとしたが、足にしがみつき泣きながら許しを請う姿を無下にはできずここまで来た。その挙句不倫。正直笑ってしまった。なぜこんな屑と結婚したのか?反省することを知らず愚行を繰り返す人間をなぜ許し続けてきたのか?悔やんだが自業自得だ。あまんじて結果を受け入れるしかない。本来なら即離婚だが子供たちのことだけが不憫で、なんとか夫婦関係を再構築しようとそこから1年頑張った。でもそんな人間はどんなにしてももう変わらない。その場だけ涙と怒りで誤魔化しても根腐れしている人間性は己が犯した罪の重みに耐えきれず破綻していくのだ。酒乱もひどくなり暴れ狂う毎日。悪夢のような1年間だった。ある日包丁を持って暴れ部屋で寝ている子供たちにも聞こえる大声で「たかが浮気したぐらいでガタガタ言うな!」と叫んだ妻の姿を見て別れを決めた。

夫婦最後の共同作業

何度別れようとしてもしがみついてきた妻。その理由は自分が否定されたくないからだ。簡単にいうと負けたくないからだ。振られたくないのだ。信じられないと思うが他でもない本人が言っていた。

「これは決して私が不倫したから別れるわけじゃないからね!私の中ではもう夫婦関係は破綻してた!だからこれは私から別れるんだからね!」

悲しいけどこれ本当に言われた言葉だ。不倫が発覚した時に泣きながら謝ってた妻と同一人物とはとても思えない。支離滅裂。相変わらずだ。でもおかげで心はスッキリした。もうこの人間はダメだ。「私の子供だ!」と目を血走らせて主張する不倫妻のもとに残してきた子供たちが気がかりだが、子供にとっては大切な母親だから大丈夫だろう。何より、子供はこちらが引き取るなんてことを言った日にはどんな破滅的行動に出るかわからない。俺だけが家を出ていけば良いのだ。

離婚届に署名捺印し妻に渡す。妻は最後まで抵抗していたが俺は実家に避難し絶対に譲らなかった。ようやく妻も折れ離婚届を市役所に出してくれることになり、当日市役所に行くと彼女は憔悴しきった顔で待合席に座っていた。まさか俺が来るとは思っておらず驚いた顔をしていたが、またうつむいて悲しそうな顔をしていた。隣に座り無言で過ごす。13年間、いろいろあったけどありがとう。心の中で言った。窓口に呼ばれ書類を提出する。俺達最後の共同作業。これでもう本当に終わりだ。別れをきりだすといつも泣いたり怒ったりして暴れていた。だけどもう最後。本当に最後。

はじめて妻に「さようなら」と言った。

かえるの唄

かつて自分の部屋だった実家の二階にある子供部屋で十数年ぶりに寝泊まりする。世界よ、これが子供部屋おじさんだ。しばらく使ってなかった部屋の壁や天井には昔貼っていたポスターのテープ跡が残っていて懐かしくなった。自分一人の人生、楽しかったなぁ。お金はなかったけど夢も時間もあった。毎日徹夜で遊んで気絶するように眠った。そんなことを思い出しながらなんとか気力を奮い起こして仕事に行き、一日また一日と家族と別れた時間が増えていく中、ある夜ふと、外に飲みにでも出かけてみようかしらと思った。今まで毎日テレビも無い部屋で横になりボーっと眠くなるまで天井を眺めるのがやっとの生活だったが心が少しは回復してきたのかもしれない。そうなるといてもたってもいられなくなって、さぁどこに出かけようかと勢い良く窓を開けると実家の周りには居酒屋どころか街灯すらなく、そこにあるのは漆黒の闇であった。田植えの時期で無数のかえるが大合唱していた。あぁそうか、ウチの近くに居酒屋なんて無いんだっけ…。居酒屋というか店なんてものがそもそも一軒も無い。田舎の底力を忘れていた。長年地元を離れてたからいきなり飲みに誘う友達もいないし、ニコニコで窓を開けたのに「今のお前の友達はかえるくらいさ!」といきなり絶望のバットでブン殴られた気がしてすっかり悲しくなってしまった。俺が一体何をしたというのか?不倫されて家族と別れて帰ってきた人にフルスイングて神様。絶望的な現実を前に膝から崩れ落ちそうになる。目の前には何万匹ものかえるの大合唱。田んぼに囲まれた家の者だけが知る凄まじい騒音。自分は慣れているが、そういえば学生時代に都会から泊まりに来た友達はうるさくて眠れないと言っていた。賑やかなのは結構だがこいつらとは飲みに行けないし、数万の命が叫ぶ大合唱の中で逆に感じる圧倒的な孤独は地球上で俺だけを孤立させ、まるで闇が叫びながら迫ってくるようで心から恐ろしかった。しばらくそのまま茫然自失して立ちすくんでいたが、突然何かが沸き上がり「これじゃダメだ!」と叫び窓を閉めた。深呼吸して、目を閉じ思い出す。そういえば独身時代は毎日が楽しく、底抜けに前向きだった。「ストレスって意味わかんねー」が口癖だった。自分のために一生懸命生きてたからだ。完全に思い出した。そうか、せっかく一人になったんだし、また自分のために生きればいいんだ。ありがとうかえる。お前らの魂の叫びが気づかせてくれたよ。「頑張れ!」って歌ってるんだろ?「立ち上がれよ!」って励ましてるんだよな?「昔の自分にかえれ!」ってことなんだろ?かえるなだけに。

かえるの唄がブルーハーツに聞こえた精神状態の診断はさておき、この日を境にまた自分の人生を歩き出すことを決めた。俺による、俺のための、俺の人生。それからはもう他人のために自分が我慢すれば良いという考えをやめたし、そのせいで被っていた不利益を他人のせいにするのもやめた。自分で決めて、自分で責任取って生きていくんだ。どの道まだ生きなきゃならないならその方が良いに決まってる。

よぅ、ただいま俺。かえってきたよ。今までずっと我慢させてごめんな。また一緒に楽しく生きていこうぜ。

きっと世の中には俺みたいに家族と別れた人もいるだろう。それでも子供が夢に出てきて、目覚めたら涙が頬をつたっていた経験がある人もいるだろう。耳をふさいでお風呂に入れ、おんぶして近所を散歩した子供の体温と幼い声は一生忘れることはない。そして、俺なんかよりもっと辛い経験をした人や、家族を抱え余裕もなく、窒息しそうになりながら精一杯生きている人、毎日毎日をただなんとなく、少しずつ磨り減りながら一人寂しそうに生きてる人もいると思う。たくさんの人がたくさんの悩みを抱え、今日という日を生きている。

それでも生きるあなたへ、

今電車の中か、一人で部屋にいる時か、会社の昼休みか、病室か、眠りにつく前か、あなたがどんな場所にいるかわからないけど、これから懸命に生きていく傷ついたおじさんの姿が、あなたの心にとって一服の清涼剤になるといいな。

最後に、このサイトの写真は全部自分で撮ったものを使うけど、この記事の扉絵は離婚直後にたまたま仕事で通りがかった公園で、ここ家族でよく来たなぁなんて思いながら涙ぐんでたら目の前に現れた親子バッタです。泣きながら這いつくばって撮ったよ。良い写真でしょ?生きるって大変だけどお互い頑張ろうね。

あなたの心にもかえるの唄が響きますように。