それでも生きるあなたへ

登山道を仲良さそうに歩く3人の男女

友情の飲み会、思いやりの席替え

訓練校も折り返しとなったが依然としてイマイチみんなのコミュニケーションが捗っていなかった。俺みたいなお年寄りと絡みたくないのは別にいいとしても、せっかく様々な年齢、経歴の人達が集まっているのだから今後の人生のためにももっと会話のある教室にして有意義な時間を過ごしてほしかった。そこで今の状況を改善すべく頭をひねり、我が昭和の頭脳を現代社会にリンクさせ脳内AIが叩き出した最新の打開策が「飲ミニケーションしかないやろ。飲ませれば勝手に喋るやろ。」という最適解であった。善は急げということですぐさま企画書をWebで作成して共有フォルダに入れひとりひとり声掛けして見てもらった。訓練期間も残り半分を切ろうとしているのでこれを良い機会に話してみたかった人と仲良くなってみるのはいかがでしょうという触れ込みで。おっさんがなに勝手なことをとウザがられるかなと思ったがそんなことより実現した時の皆の恩恵が大きい。特に若い人にとって財産となる出会いが生まれれば御の字だと思い切って行動した。さぁ反応や如何に。

招待状の意外な反響と人生に役に立つ営業テクニック

蓋を開けてみると意外や意外出席率は9割だった。みんなもっといろんな人と話してみたかったようだ。先日、現役Webデザイナーのプロが特別授業を行ってくれたがみんな普段とは別人のように質問していた。実際にそれでメシ食ってる人だから尊敬の眼差しでキャッキャ言いながら話しかけていた。だが、気持ちはわかるがもっと視野を広げれば隣に座っている現・失業者のおっさんおばさんもちょっと前まで何かのプロだった人。そこから得る貴重な話も多いはずなんだが職業訓練生同士は(どうせ無職だし…)とお互いを軽んじる風潮があるので積極的な情報交換をしている人はいなかった。面接のマナーや履歴書の書き方をノート取ったりしていたがクラスメイトの中には採用担当者だった人もいるかもしれないし、その人の話を聞いた方がよっぽど実戦的な情報が手に入るのにそこまで気が回る人はいなかった。現に俺も昔採用担当者だったし面接のロープレもいくらでもしてあげるのに例の"お年寄り無職者おことわり令"により誰も声を掛けてこなかったし経歴を知ろうともしなかった。もったいないなぁこの人たちと思っていたがまさかの飲み会高出席率ということでこれからの教室は彼らにとって有意義な場所になるかもしれないと胸躍った。

ちなみに今回あまり親しくない人達に招待状を出し高出席率を獲得したのは実はあるテクニックを使った。これは人生でとても役に立つ営業の奥義なので是非知ってほしい。

【限定クロージング】

「クロージング」とは結論を導き出すこと。スペルはClosing。「閉じる」という意味のCloseから来ている。営業トークを閉じ、結論を求める、というニュアンスかな。相手に結論を出させることを「クロージングをかける」というが、たとえば「この保険必要だと思いませんか?」「そうだね。じゃあ入るよ。」という風にこちらの望むゴールに誘導しつつクロージングをかける。以前、"人は選択肢が多いと迷う生き物"と言ったが、限定クロージングはそれを逆手に取った、選択肢を絞り相手の回答を限定するトークテクニックだ。あなたも経験があるだろうが、たとえば仲の良い友達と

「いつか北海道行ってみたいね~」

「そうだね~」

というやりとりをする。その人と北海道に行きたいのは本当だがこの旅行、実現するだろうか?答えは「しない」。契約を獲得することを営業の世界では「決まる」という。その言い方でいうと上記のやりとりは「それじゃ決まらないよ。」となる。駆け出しの営業マンは先輩からこのセリフをよく言われるしその不吉な予言は100%当たる呪いの言葉なので青ざめた顔で冷や汗を流すことになるが、なぜ決まらないのか?提案もクロージングもあやふやで回答種類も無限大だからである。本当にその友達と北海道に行きたいのなら、

「あなたと北海道に行ってみたいんだけどさ、」

「いいね!」

「来月か再来月だったらどっちが行けそう?」

「それなら再来月かな。」

「じゃあ再来月の土日に行こうよ。どの週が都合良い?」

「第3週が助かるかな!」

「ありがとう!じゃあチケット手配しとくね!」

という風にトークを進めるべき。これは「あなたと行きたいよ」という具体的な提案と、「来月か再来月」という二択の限定クロージングと、「それなら再来月かな」「第3週が助かるかな」というフットインザドア法という心理学を応用したテクニックと、最後にもう一度「どの週が都合良い?」という四択の限定クロージングを用いて結論に導いている。このフットインザドア法というのは先輩から「小さなYESを積み重ねろ!」と教わるやつで、小さなお願いをOKさせることで大きなお願いを断りづらくさせるという、詐欺師がよく使うテクニックである。読んで字の如く玄関のドアを閉められる前に靴を挟んで「奥さんちょっと待ってください来月か再来月なら?ありがとうございます!じゃあその再来月のどの週なら?ありがとうございます!」とズケズケ入り込んでいく営業マンの姿から「Foot in the door法」と命名されている。本当に実現したいイベントならこのように順序を踏んで確実にターゲットを落とすこと。営業マンは日夜そんなテクニックを駆使して契約を獲得している。今回は無限の選択肢ではなく「これとこれならどっち?」という限定クロージングをかけているので相手も「じゃあこっち。」と答えやすく、気づかぬ内に詰め将棋のようにこちらの望むゴールに誘導されたというわけだ。便利なので大切な人との約束に是非使ってみてね。

話を戻そう。飲み会の出欠表、最初は「今月と来月だとどちらが良いですか?今週金曜日までに希望月に〇を入力してください。」と投げた。来月多数だったので次は「来月のどの金曜日が良いですか?出席可能な日に〇を入力してください。」と投げ2ターンで終了。これで出席率9割だった。考えてみてほしい、

「飲み会をやりたいのですが出席したい方いますか?ご意見を入力してください。」

だったらあなたは参加するだろうか?俺ならとりあえずめんどくさそうなので参加しないと思うし、その聞き方だと具体的に日にちや場所が決まるまでに何ターンもみんなとのやりとりが必要になるだろう。余計めんどくさくて付き合いたくない。人間は「めんどくさい」と思ったら以降の話は聞かなくなる生き物なのでそうなる前に上手にレールに乗せてあげて最速で結論まで導いてあげることが重要である。営業の世界で磨いた腕がみんなの交流の場をつくるために役に立つなんて…鍛えてくれた諸先輩方に心から感謝。

楽な人がいるということは辛い人がいるということ

飲み会もかなり盛り上がり、みんな大いにお喋りして交流していた。大成功だ良かった良かった。奥様方もいるし遠方から電車で来てる人もいるので一次会で解散。これで来週から賑やかな教室になるといいな。きっと聞けばみんなそれぞれおもしろい話や役に立つ話を持ってるはず。訓練校というこの貴重な機会を最大限に活かして今後の糧にしてほしい。

貴重な機会といえば、そういえば一人の女子から席替えの提案があった。前回の訓練校はスピーチと月イチの席替えがあったのでみんな仲良くワイワイやっていたのだが今回の訓練校はスピーチも席替えもなかった。その子は最前列に座っていたので常に背中をピーンと伸ばし前だけを見て授業を受けていた。そんな姿をいつも後ろから眺めていたが、考えたら一番後ろの席の俺は気楽だが最前列は息が詰まるだろう。訓練校という皆が等しく学べる場でずっと同じ場所、しかも最前列でしんどい思いをしている人がいるならフェアじゃないしここらで席替えしてみるのもありなんじゃないかと思い「先生に提案してみるよ。」とその子に約束した。こういう場所だからこそみんな平等に経験を得るべきだ。むしろ今までずっと最前列の人達のストレスの上にあぐらをかいて一番後ろで気楽に過ごしていた自分が申し訳なく思えた。

思いやりの向こう側にあったもの

飲み会明けの翌週、教室が少し活気を帯びていた。みんな以前より明らかに会話している。親睦が深められたようだ。やって良かった。感謝もされたし、みんな思ったよりピースマインドなイケてるブラザー&シスターじゃないか。これは俺も認識を改めないといけない。これからは彼らのことを信頼できる仲間として尊敬していこう。良い戦友に囲まれた俺は幸せものだよ。人間っていいなと胸が熱くなったその時、仲良くしてくれている女子が小声で教えてくれた。

「席替えを絶対阻止しようとしている勢力がいますよ。ていうかほぼ全員。」

え!?なぜそんな声がと尋ねるとみんな今の場所で慣れたから今さら変えてほしくないと。一番前の奴らがしんどかろうが知ったこっちゃないと。私だけが幸せであればそれで良いと。嘘やん!そんなこと大人が言うか!?一番前の人達大変だろうから席替えしてあげようと思うのが人情じゃないのか?それに今の席だって努力や金で得たものじゃなくたまたま与えられたものだろう。その結果不満を訴えている人がいるなら平等にシャッフルして良いことも悪いこともみんなで分担していくべきじゃないの?それもここでの社会に復帰するための訓練であり経験なんじゃないの?

俺はみんなのあまりの心の狭さと自分さえ良ければいいという直球勝負に衝撃を受け、共に一番後ろの席である隣の女子に席替えをやろうと思うけどどう思う?と聞いてみた。この子は良識派だから賛成だろう。

「絶対にイヤです。」

かくして親睦が深まり夜明けを迎えたかに思えた教室は、思いやりゼロの暗黒教室として生まれ変わった。