それでも生きるあなたへ

疲れ果てた登山道にぶら下がる「まだあるぞ」の標識

リアル人生ゲーム

旅に出ようと決意し会社に退職宣言までした俺のところに食事のオファーがあった。昔からかわいがってくれた代理店の社長から。保険会社の社員だった俺にとって業界の大先輩にあたる人物。辞めると聞いて最後にご飯でもということだろうか、謹んでご相伴にあずかることにした。上司である支店長も同席するとのことで少々仰々しかったが、この業界は令和の今でも飲ミニケーションが活発なためそれもよくある光景であまり気にしなかった。お世話になった人だし、感謝の気持ちを伝える良い機会だ。

坂本龍馬か。(2回目)

「辞めるんだって?じゃあ単刀直入に言うね。」

乾杯してさぁごはんを食べようとした時に社長が言った。

「ウチの会社を助けてほしい。」

え?なんのこと?今日は俺の門出を祝ってくれる日じゃないの?助ける?

ハッとして支店長の顔を見るとまっすぐな、とても真っ直ぐな眼差しで社長の顔を見ている。まるでかつてのメリコミさんのような凛々しさだ。そして俺の顔を一切見ない。…やりやがったな?仕組みやがったなこの野郎と思ったが今さら帰るわけにもいかないのでまずはお話を聞いてみることにした。するとどうやら社長の会社の役員さんが一人抜き差しならぬ家庭の事情で急ぎ退職なさるので、その人が抱えていたお客さんを保全する人員が欲しいと。しかしながら人手不足のこの業界、知識豊富で経験もあって即戦力となる人物もおらず、素人をイチから育てても最低2年はかかるからどうしようとホトホト困り果てていた時におるやないかと、5年も働いて経験も知識も充分なうえ仕事辞めて富士山見に行くとか言いよるアホがここにおるやないかと。富士山行く前にウチに寄っていけと。およそ無茶苦茶な論法だが社長は心底困っており、「八方手は尽くしたんだけど…」と力なく呟く表情から多大なる心労も窺えた。困る、困るぞ。

僕が僕であるために

社長は学歴も前職もエリートさんなのでいつも余裕のある、人によっては高飛車とも取られる性格だったのでこんなにも憔悴している姿は見たことがないし、それだけ残り時間僅かな砂時計が彼を追い詰めているのだろう。しかし…しかしだ、離婚して絶望の淵から這い上がり、様々なモンスターとの激闘を経てようやくマトモなおなごと出会い、これからやっと自分本来の楽しい人生を謳歌しようという時に来るかね?狙ったかのように。義理人情や愛情を優先し自分を殺した結果待ってたやん、地獄が。だから今後そういうのなくしていこうねって誓って笑顔で走り出した瞬間に後ろから襟引っ張られて首グキッてなるみたいなこのタイミングなんなん神様?前回のフルスイングといいなかなかやなお前。しかもよりによって一番仲良くしてくれてたこの社長かよ。悩む…悩む、が!もう他人のために生きるのはやめたのだ。俺には俺の人生、他人様には他人様の人生、それぞれがそれぞれの人生を第一に優先し、責任を全うしながら生きていかねばならない。お人よしの俺はよく他人から裏切られた。所詮こちらの気持ちなど他人に伝わるわけがないのだ。やっと訪れた人生のチャンスを棒に振るわけにはいかない。俺は断腸の思いで弱り果てた社長にこう言った。

「わかりました。富士山行く前に御社に寄ります。」

社長は泣きそうな顔で喜んでいた。しらじらしい初見のような顔で「えっ?何の話?でもなんか知らんけど良かった!」みたいに喜んでる支店長の顔が少しイラッときたが、この人も業界の人材不足解消のため日夜奔走する管理職。まぁ仕方ないかと白旗をあげた。これでまた自分のことは後回しかよと思ったが、これを断ったら俺が俺じゃなくなるだろう。恩には恩で報いる。

『人に与えた恩はすぐ忘れろ。でも人から受けた恩は親の仇ほど忘れるな』

なぜか子供の頃から座右の銘として思い続けている言葉。テレビで見たのか漫画で読んだのか知らんけどいつの間にか心にずっとある言葉。ひょっとしたら俺が10歳の頃死んだ父親が言っていたのかもしれないね。それで損することもたくさんあったけど、学習し成長したのも事実。今度は他人に力を貸しつつも自分のために準備を進めていけば良い。その能力も経験もお前にはあるだろ?俺よ。

サイコロの目悪すぎやろ

自分のお客さんに頭を下げ、保険会社の社員ではなく今度から代理店へ移籍することを説明して回った。その際、社内ルールで今までのようなお付き合いができなくなり、私ではない別の担当者が皆さんのお世話をさせていただきますのでよろしくお願いしますと理解を求めた。保険業というのは会社や個人の人生を背負う責任重大な仕事。あなたならと思う担当者から皆さん保険に入ってくださる。なので当然俺にもファンがいてたくさんのお叱りや激励をいただいたが、最終的にはみんな笑顔で送り出してくれた。ごめんなさい、ありがとう。皆さんにかわいがってもらえて、頼りにしてもらえて本当に感謝しています。

保険会社内の販売部署ではベテランだったが明日から代理店でペーペーだ。しかも退職される役員さんから引き継ぐ多くの法人や個人、俺からすると全員はじめましてだ。顔馴染みのお客さんを100失い、翌日から全て初顔合わせのお客さんが100いる。保険マン多しといえど俺と同じ経験をしたことがある人間はそういないだろう。しかも役員さんが20年間保全してきたバリバリの役員さんファンばかり。

大丈夫かこれ?俺やれるのか?

やっぱ他人の不幸なんて無視して富士山行っときゃ良かったかなぁ~と少し後悔しながらも全お客様はじめましての御挨拶回りが始まった。

5年やった仕事を一旦白紙にして振り出しに戻る。マジで普通こんなことないぞ?どこのメーカーやこんなクソゲー出したのは。